今歌 「太陽の憂鬱」The Songbards
やっほー!!
本日、Twitterでやりとりをしていたら、久しぶりにひょっこり『ブロッコリー』がタイムラインに顔を出した。
タイムラインと会話するこの男、感性が豊かゆえ日本語使いがたまに常軌を逸してしまっている...。— 若月 翼 / Wasei Salon (@wakatsubasa) 2018年9月4日
このブログが象徴的だhttps://t.co/C7j33Mx1YI
お気づきいただけただろうか「ブロッコリー」という単語の崩壊に。 https://t.co/sYVXbYsmrt
非常に懐かしい記事だけど、この記事はタイトルが『ブロッコリー』にも関わらず、その後一言も『ブロッコリー』が、まともに言えてないという伝説の記事である。気になるひとは、上記つぶやきのリンク先でご覧ください。きっと意味は分かるけど、その現象の意味わからないと思います(笑)
なんでこんなことが起こるのか自分でも全然わからないのだけど、個人的に昔よりかなり日本語がうまくなったという印象はあります。それは『感覚』の世界から、『言葉』が必要な環境になってから、如実に感じる。
自由研究風に、ちらっと考察してみる。
『言葉』より『感覚』がものを言う『環境』。
個人的には、高校まで全力でバスケしかやっていなかったことが、『感覚』人間なる原点なのではと思っている。なぜなら、バスケにおいては、『言葉』よりも『バスケのプレイ』が、コミュニケーションの基点になっていたから。
学校では、前提としてバスケやってるまーしーになるから、自分の説明をバスケがしてくれてる感じだった。部活はもちろんなのだけど、中学生の時から大人も交じる駒沢公園のストリートバスケでも毎日のようにバスケをしてたのも大きい。そこでは、同世代だけがいる部活以上に『バスケのプレイ』がものをいう場所だった。
なぜなら大人も交じっているので、中学生でも、『バスケのプレイ』がよければ、大人の仲間入りで、そこからコミュニケーションの輪にいれてもらえる。なので『言葉』からはじまるコミュニケーションより、『バスケ』からはじまるコミュニケーションが多かった。
つまり、『感覚』をカタチにした『バスケのプレイ』が、自分を説明する『言葉』になってたんだよね。しかも自分の人生にとっては、バスケがすべてだったから、『言葉』よりも『バスケ』そのものを練習することに全精力を注いでた。
そして『バスケのプレイ』自体も、身体能力にスキルを付随させたプレイだから、ほかのひとに言葉で説明できないものが多くて、より一層『感覚』方面に走っていってた気がする。
まぁそもそもなんだけど小学生頃から記憶を辿ると『感覚』で行動してたことが多いんだよね。小学生時代は、擬音語と擬態語を使うことがめちゃくちゃ多かったのを覚えてる。動きながら「シュッツシュッ」とか言ってたり、友達と「デュクシッ」と言いながら手を武器にして遊んでたりしてたし(笑)
その『感覚』がバスケをすることで踏襲&加速された感じなのかなと思う。ちなみに一流のスポーツ選手は、言語化の部分もできるし、それがあってはじめて監督の言葉もしっかり理解できると思うので、その部分が圧倒的に足りてなかったなと選手時代の自分を思い出しておもう(笑)
『感覚』より『言葉』がものを言う『環境』。
『感覚』より『言葉』がものを言う『環境』はある。それは今までと全く文脈が異なる『世界』へいったとき。
当たり前なのだけど、それは『感覚』をもって自分を伝えられなかったり、『感覚』を伝えるには時間がかかる『環境』のこと。
二年間浪人して大学に入ったけれど、大学に入ってからも、自分が属するコミュニティは『バスケ』だけだった、大学のサークル、学外のクラブチーム、ストリートのチーム。全部ぜんぶ『バスケ』。
なので大学時代も『バスケ』を基点したコミュニケーションがほとんどだった。それが変わり始めたキッカケが、大学三年のはじめにあった。
そのきっかけは、東日本大震災でバスケが(自粛みたいな感じで)できなくなって、参加した震災のボランティア。そこで出会う人は、ほぼ初めましてで、いきなりその場で『バスケ』をすることなんてできない。環境的にも、『言葉』基点のコミュニケーションしかできない環境だった。
その環境が、久しぶりに『バスケ』以外の世界に入った環境だった気がする。そんでもって、実際にボランティアの現場を体験してはじめて、『バスケ』とは違う興味がわく世界があるのかもと思い始めたキッカケでもあったな。
このあたりから、『感覚』より『言葉』がものを言う『環境』に少しずつ触れ始めて、少しづつ日本語覚えていった気がする。東京から大山にきたことでも、コミュニケーションとしての『言葉』をより学べた。
なぜなら『言葉』基点のコミュニケーションをする『環境』には変わりないのだけど、東京の『言葉』と、大山の『言葉』では内在化する意味にがギャップがあるから。そのおかげで、もう一段、体感をもって『言葉』を勉強するきっかけをもらえた。
そんなこんなで書く言葉にしても、『ブロッコリー』当時よりかは、ちゃんと日本語を扱えるようになってる気がする。
『感覚』からはじまる言葉は、日本特有な言葉で、武器。
ただ個人的に、けっこう長い間『感覚』からはじまるコミュニケーションの『環境』にいたことはよかったのかもと思えてる。なぜならの自分の中の感覚的な部分を養えたから。
面白い事実があって、実は、世界において『擬態語』と呼ばれる『感覚』からはじまる言葉を持っているのは、日本と韓国だけ。しかも日本においては、『擬態語』の数が半端ないし、常に新しいものが生み出されている。あげぽよとか(笑)
下の絵は、個人的に去年『奥行き』が自分の中で流行ってて、そのあたりと連動して引っ付いてきたオノマトペ(擬音語と擬態語)についてまとめたもの(去年かな)
ちなみに『耳』という『感覚器官』を使って察知する『擬音語』は、どこの国にもある。耳から聞こえたものを、言葉に記す。
面白いのがそれ以外の『感覚器官』で感じた情報を『心情(心)』を通して言葉にする『擬態語』は、日本特有のものってところ。なので、擬態語がはいってる漫画の言葉を、海外版に翻訳する時には、対応する言葉がないので、消されるか、そのままの形で残されたりする。
つまり何が言いたいかというと、『感覚』が養われていればいるほど、『言葉』から言葉の奥行きを感じ取れるんじゃないかっていう仮説。それにその能力は、日本人がたぶんめっちゃ得意な領域なんだと思う。
その感覚からできたのがたぶん『日本建築』であったり、『日本画』であったりする。『日本画』とかぜんぜん立体的じゃないけど、たぶんみんな『奥行き』感じる能力あるから、勝手に『奥行き』感じちゃってたんだろうね!
だからこそ、その『感覚』基点のコミュニケーションの環境に長年いたことは、ラッキーだったかもと思ってる。論理的な記号としての『言葉』はいくらでもあとから身に着けられるから。それは自分のブログをみててもあきらか。
そして『奥行き』を感じれる日本人の能力は、もしかしたらより一層ひろがるITの時代において、いちばん必要な能力な気がしてる。なぜならインターネットも『奥行き』がはんぱないから。
インターネットができて、付加価値が『モノ』から『モノの先』に移ったわけだけど、それなんてまさに『奥行き』そのもの。
いまは『モノ』から『モノの先』に付加価値があるんだけど、更に次はその『モノの先』の奥行きに対応する『モノ(リアル)』がのっかるのが最強なのではと思って書いたやつ。
個人的にはそれをリアルで再現したいなと思ってる。だからその奥行きに対応する大山の土台をちゃんとつくる必要がある。
なんかアップル?!が禅をしてたみたいな記事を読んだことがあるのだけど、インターネット時代には、この『奥行き』を感じる力が大事なことに気付いてたんじゃないかなー。
なんか『ブロッコリー』から、『感覚』と『言葉』についてちらっと話すつもりがいつの間にか着地点が『奥行き』になってた(笑)
ちなみに方向性はあるけど、書きながら考えてるから、書いてみないと最終結末がどうなるか自分でも全く分からない。まさか『奥行き』に行き着くとは!笑
ちなみにこれホント個人的な考えなので、あしからずー!
以上、『ブロッコリー』からのひとりごと日記でした~!
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